黄昏編インターミッション④
============================================================= <4:たとえこの世界が終ろうと> ============================================================= ――過去を想い、未来に繋ぐ者たちがいる。 失われたものに想いを馳せつつ、希望を紡ごうとする者たちがいる。 神奈川県横浜市、港傍のマンションの一室。長らく出入りする者のいなかったその部屋の扉を、開けて入ってくる影があった。 「ようやく見つけましたわ……! フリッツさまの隠し部屋を!」 宮薙梓は室内を見回し、喜びに満ちた声を上げた。 亡き黒の魔人フリッツ・メフィストの趣味は、美術品収集だった。世界のあちこちに隠し部屋を持ち、そこに美術品のコレクションを保管しているという噂があった。そこで梓はここしばらく、フリッツの隠し部屋を探し続けていたのだ。 むろん美術品目当てではない。ただフリッツの遺したものに触れ、想いを感じたかったからだ。 しかしそんな梓も、実際に彼のコレクションを前にすると、驚きを隠せなかった。 「これって、ルノワールの真作……!? こっちはクレー、こっちはセザンヌ! 一体どれくらいの価値が……!」 いずれも非常に高い価値を持つ品々だった。軽く見積もっても、日本円にして20億円分にはなるだろうか。 フリッツは魔術師を愛し、人間を憎悪していた。その人間たちが作り出した美術品に、彼はなぜこんなにも心惹かれたのだろう? 人間は醜くとも、それが生み出す美には価値があると考えていたのだろうか? 真相は永遠にわからない。だが解釈は出来る。梓は亡きフリッツの遺したものを見つめ、彼に想いを馳せた。 と、その時。ふと部屋の隅のテーブルが目に入った。 その上に封筒が置いてある。歩み寄ってみると、そこには『梓へ』と言う文字が―― 「私への手紙!?」 封筒の中の手紙を取り出と、そこには懐かしい彼の文字が並んでいた。 * * * * * * * * * * 『やぁ、梓。 君ならいつかこの部屋に辿り着くと思っていたよ。 君がここに来ているという事は、恐らく僕はもう死んでいるんだろう。 何しろニナにも秘密にしていた部屋だ。 生きているうちに、誰かに感付かれるようなヘマはしないからね。 君がこれを読んでいる今、魔術師世界がどんな状態になっているのかは、僕にも予想できない。 だけどもしも、和平を迎えているなんて事があれば、気を付けた方がいいよ。 その和平は長く続かない。黒と白と赤が判りあえる事は、永遠にないのだから。 でも、だからこそ力による支配が必要なんだ。 魔術師たちを愛すればこそ、僕はそれを目指していた。 支配は庇護と同義だからね。絶対者による支配と統制こそが、真の平穏への道だ。 その事を忘れないでくれ。僕からの最後の教えだよ。 それと―― 最後に一つだけ、伝えたい事がある。 僕は全ての魔術師を愛していた。 その中でも特にニナと、そして君を愛していた。 誰が何を言おうと、君が何を思おうと。それは変えられない事実さ。 僕はいつでも君と共にある。 だから安心して、君の道を行くんだ。 僕の可愛い梓』 * * * * * * * * * * ――手紙はそう結ばれていた。 それを読み終えた梓の眼に、涙が滲む。彼女は手紙を胸に抱いて呟いた。 「ありがとうございます、フリッツさま……おかげで私の本分に戻れましたわ」 ニナを救うため、和平に賛同した事に悔いはない。だが自分はフリッツの弟子であり、覚の魔女だ。彼や先達の想いを継ぐ者として、黒の大義を諦める訳には行かないのだ。 「……そう、諦める訳がないんだよ。 今は隣神を倒すため、白や赤と手を組むのも我慢してあげる。だけど最後にこの世界を制するのは、我等シュバルツイェーガーなのだから!」 梓は素の口調で、高らかに宣言する。そして身の内に眠る、フリッツの遺物に語り掛けた。 (――フリッツさま。梓は貴方様の弟子として、 恥ずかしくない働きが出来ていますでしょうか? ううん、必ずして見せますわ。 だからこれからも、どうかお見守り下さいませ……) そう思いながら、梓は部屋を出る。 今日は大切な用事があるのだ。新たな決意を胸に、彼女はその場に向かった。 -------------------------------------------------- ――それからしばしの時間が経ち、陽がとっぷりと暮れた頃。 都内某所の、ウィザーズインクが経営する高級料亭にて。 和平成立にあたっての、宴席が設けられていた。 招待されたのは、祈と衛示。 そしてラプラスとニナ。 和平に尽力した梓と、結解冥。 さらに調停者の、シウ・ベルアートと蘇我修司だ。 料理は懐石。先附・八寸・椀物・向付。更に蓋物・鉢肴・止肴・食事・水菓子と続く。 この宴席の発案者でもある料理人が、腕に手塩をかけた料理の数々に、出席者たちが舌鼓を打つ。 「今回も美味しいですね……あの方の料理には、いつも驚かされます」 「ホントだねぇ。それに私は、他の人たちとの交流が多くなかったから、こういった場に参加するのは楽しいな。彼女には感謝だよ」 衛示の言葉に、冥が微笑んで頷く。 『他の人たちとの交流がなかった』故か、冥は物怖じせず、どのトライブの者とも気さくに話していた。 「それでさ。皆は隣神の戦いの際は、どう動くつもりなの?」 「まず我ら白は、一般人を護りつつ、降魔と戦います。それは白の使命とも直結してますので」 「また有事の際は、私がニナさんを護衛します。ニナさんは今でも黒の要ですから」 「うむ……頼む、祈」 その事については既に、白と黒で話はついているようだ。冥が感嘆したように言う。 「白と黒の魔女の歴史的和解かぁ、凄い場面に立ち会ったね……となると赤も何かしなきゃだけど」 「なんかある、冥?」 「ちょっとしたアイディアが一つ。私の固有魔法って魔術の強制解除だけれど、もともと『介入して上書き』っていうのが主なんだよね。それで降魔の生体情報に介入して、造りを変えたりとかってできないかな?」 「あ、それいいわね。実験の場は用意するから、さっそく試してみて」 「了解ー」 そんなやり取りの脇で、梓がニナに声をかける。 「こんな茶番に付き合わせて申し訳ありません。現場の判断として、勝手に和平に賛同した事も……」 「構わん。本国にも話は通っていたし、他に方法もなかっただろう」 ニナは多くを語らなかった。そこに今度は、シウが声をかける。 「ニナさん。先日はどうも……」 「ああ」 「あの戦いの中で、先代黒の魔女の遺物『影の猫』は、期せずして僕が手に入れる事になりました。それを持つべきは僕より梓ちゃんだと思って、彼女に渡そうと思ったんですが……」 「ひとまず丁重にお断りしましたわ。珍しく良い判断をするものだとは思いましたが、ニナさんのご意向を聞かずに、受け取る事はできないと思いましたので」 「いや、いい……それも闘いの結果だ、手に入れた者が持て」 ニナはそう言い、シウを見据えた。 「ただし忘れるな、シウ。お前が3トライブの調和を目指しているなら、先代黒の魔女の願いや、今まで死した魔術師たちの事も鑑みろ。それを理解せず、『抗争を終わらせる事』のみを目的に行動する者には、何も救う事などできんぞ」 「わかりました……心に刻んでおきます」 それは黒の魔女から、かつて部下だった者に対する、最後の教えだったのだろう。 シウがそれを受け止めた時、部屋の引き戸を開けて、この宴席の主催者にして料理人が現れた。 あゆみこと緒方歩が、深々と一礼して言う。 「皆さん、お楽しみいただけましたでしょうか?」 「絶品よ絶品、また太りそう」 ラプラスの言葉に、他の皆も頷いた。あゆみは微笑んで続ける。 「さて、まずは和平へのご尽力ありがとうございました。今後のために少しでもお役に立てばと思い、資金をご用意いたしましたのでご査収下さい。税法上の処理は済んでます」 彼女のその声に従い、赤の従者たちが入ってきた。 衛示と祈とシウに、それぞれアタッシェケースを渡して去る。その中には多額の現金と、有価証券等が入っていた。 「このお金は……?」 「大丈夫、変なお金じゃないわよ。赤の研究所で作られたコスメとかアンチエイジング商品、操作魔法を利用した高効率太陽光発電事業とかで稼いだクリーンなマネーだから」 「だったらありがたく頂いておきますけど。隣神討伐に力を貸すのであれば、当然の報酬と言えますわね」 梓は謝意を見せつつ、他トライブに心を許さない態度を貫く。 あゆみは苦笑し、それから顔を引き締めて言った。 「さて、お食事が終わったところで……そろそろ始めましょうか。隣神を討った後の話をしておかなければなりません」 彼女の言葉に、その場にいる全員が固く頷く。 各方面の尽力によって、確かに3トライブの和平は成立した。しかしその具体的な内容までは決まっていない。その事について話し合おうというのだ。 そしてその討議は、いま行う必要がある。隣神との戦いの後、この場にいる者たちが生きているという保証は、全くないのだから。 「まずは皆さんの、それぞれのご希望を教えて頂いても宜しいでしょうか?」 あゆみがそう問うと、シウが挙手して言った。 「では僭越ながら、まず僕の最終的な望みをお伝えします。 今は隣神という眼前の脅威がある為、3トライブは和平に入りました。しかしそれが倒されたら、再び抗争に入る可能性が高い。魔法がこの世に存在する限り、戦いは続く…… であれば僕は、全ての窓を永遠に閉じる事で、現世から魔粒子を絶やしたいと考えています」 その言葉に出席者たちが目を見開く。ラプラスも驚きの表情でシウを見た。 「……あんた、そんなこと考えたの?」 「はい。でもそれに関して、ラプラスさんに質問したい事があります。仮に全ての窓が閉じられたら、魔術師は魔力を失い、ただの人間に戻るんでしょうか?」 「うーん……どうやって窓を閉じるのかとか、前提的な話は省くけど。仮に全ての窓が閉ざされたとしても、既に現世に流れ込んだ魔粒子は残るわ。この世に魔術師がいる限り、魔法も絶えないわよ」 「そうなんですか?」 「まぁ何かの理由で、魔術師が全滅したりすれば別だけどね。隣神を斃した後も、トライブ間のアレコレは続くと思うよ」 その言葉にシウが、残念そうに黙り込む。そこであゆみが声を上げた。 「でしたら、私からも戦後の展望を。 まずは隣神との戦いに勝ってからですが、その後で魔術師達の日常を取り戻す必要もあります。 私は魔術師達が市井に混じるでも、魔術の研究を深めるでも、皆が自由に生きられる世界にしたい。それがマクスウェルさんから引き継いだインクを守る事であり、魔術師の居場所を守る事。引いてはラプラスさんを守る事だと思ってます。 それが、転変の魔女としての使命であり理想です。どんなに困難でも諦めるつもりはありません」 「もちろんそれには、私たちも協力したいと思いますが……」 祈はそう言って、ニナを見た。 あゆみの意見は、赤に所属する魔女として正しい。それに白が同意するにしても、黒の賛同を得なければ、結局は対立の構造が続くだろう。 皆の視線がニナに集中する。すると彼女はややあって、静かに口を開いた。 「……では、魔力無き身なれど、黒の魔女として告げさせて貰う。 白は魔術師と一般人を分離する事で、赤は一般人に混じり合う事で、安寧を得た。このまま黒が沈黙すれば、魔術師世界に平穏は訪れるのかもしれん。 しかし、だとすると――過去に人間どもに虐げられ、死んでいった魔術師たちの無念はどうなるのだ?」 そう問うニナの表情には、怒りも憤りも浮かんではいなかった。幽かな悲しみが滲んでいるだけだった。 「いつまで過去の遺恨に縛られてるのだと、お前たちは思うかもしれない。だが世界中の魔術師が忘れても、私は先人の無念を忘れない。忘れる訳にはいかんのだ……それがシュバルツイェーガーの存在意義なのだから」 だからこそ古の黒の魔術師たちは、異端教会から分離し、シュバルツイェーガーを設立したのだ。 ただ単に、世界支配の欲望に駆られたわけではない。先人の無念を晴らせるのは、黒しかいないから。彼らが闘争を止めたら、過去の悲劇はやがて風化し、忘れ去られていくだけだから。 黒には黒の信念があるのだ。それが果たされぬ限り、真の和平は成立しないと思われたが―― 「……それについてだが、以前、深淵の魔人から聞いた案がある。受け入れられるか否かは別として、この場にいない彼の代わりに提案させてもらおう」 それまで黙って話を聞いていた蘇我が、初めて口を開いた。 彼はニナと、そしてその場にいる全員に向けて続ける。 「魔術師全体の未来の為に、まず『トライブが対立し続ける構造を変える』。3トライブで手を結び、それぞれに役割を与えて、既存の社会システムに組み込むんだ。 白は一般人・魔術師双方の保護と養育。 黒は魔術師の戦闘訓練及び、落とし児等の討伐。 赤は魔術研究と、運営資金調達。 そのように役割を分けた上で、3色の魔術師が共存共栄を目指す。
それが3トライブの理想に、最も近い構造かもしれん」 「黒の理想にも近いだと? どこがだ?」 「黒の理想は『虐げられた魔術師を解放し、人類の上に君臨させる事』だと聞いた。そしてお前はかつて言ったな、『支配は庇護と同義である』と。だが逆もまた然りで、『庇護は支配と同義』なんじゃないか? 社会システムに組み込んじまえば、いずれは魔術師が隠れて生きる必要もなくなりそうだしな」 「っ……!」 「まぁ後半部分は俺の私見だがな。検討の価値がある提案だとは思う」 蘇我の言葉に、ニナが黙り込む。 長い沈黙だった。祈がややあって声を上げる。 「……今のご意見は、抗争を回避し黒の理想をも叶える為の、数少ない道のように思えました。ニナさん、いかがですか?」 「ああ……確かに、そうかもしれないな」 ニナの答えに、皆が安堵の表情を浮かべる。梓は小声で囁いた。 「宜しいのですか、ニナさん」 「悪くはない。そうだろう、『覚の魔女』?」 ニナはもはや自分の片腕と言うべき魔女を見据えて、含みのある声で言った。 梓は一瞬の間の後、頷く。抗争以外にも、フリッツの理想を叶える道はある事に気づいたのだ。 (和平の構造が構築された上で、いずれ黒がその頂点に立つ……殺し合わずとも、それは可能ですわね) それは親友の理想とも、さほど矛盾しない。真っ当なビジネスと政治的駆け引きの勝負になるが、今までよりずっと、無駄な流血は少なくて済むだろう。 そう思う梓の横で、ニナがはっきりと言う。 「……いいだろう。改めて黒も、この和平に賛同する。後顧の憂いが消えた所で、共に隣神を打ち倒し、我らの世界を救おうではないか」 それは曲がりなりにも、魔術師たちの歴史の転換点となる言葉だった。 白も赤も、黒と似たような想いはある。だがそれでも隣神を倒すまでだけではなく、その先も見越しての和平が成立したのだ。 喜びの声を上げる魔術師たちの中で、ニナが蘇我に問う。 「だがそうなったら、お前たち調停者はどうなるのだ?」 「俺は新米調停者だからわからんが。まぁ和平のルールを制定し、それを執行するのが役目となるだろうな」 「あ。でしたら私から、一つご提案があります」 そう言ったあゆみに、蘇我とニナが目を向ける。 「私が調停者の皆さんに望む事は、『不健全で完全な組織より、不完全でも健全な組織を』という事です。トリスタニアさんの様に、強くても不安定な個人に頼るのは危険です。だったら個々は弱くとも、公正に機能する集団の力で、法を執行するべきではないでしょうか?」 「何? それってつまり――」 「はい、『警察』に近い組織です。だからこそ特に蘇我さんには、そんな調停者を目指して欲しい……私はそう思います」 「……そうだな。それが俺の本分だ」 あゆみの言葉に、蘇我はかすかな笑みを返した。ラプラスがぱんと手を叩いて言う。 「よし、指針は見えたわね!」 「ええ。それぞれの意見もまとまってきたところで、虐殺禁止原則と和平の締結を正式に行いましょう」 シウがその場で、和平の条項を文書化した。 それにその場にいる全員が血印を押す。 ――シウは密かに、条項の条文に『永続的な和平』という文言を忍ばせた。 無論、それはただの約束だ。その文書が、抗争を完全に終わらせる訳ではない。 だが今日この場にいる魔術師たちは、互いの意見をぶつけ合い、そして歩み寄った。 それこそが希望だった。 抗争に満ちていた魔術師の歴史が、いま変わりつつある。 そんな予感を、出席者たちは感じていた…… -------------------------------------------------- ――その会合の後。 シウと蘇我はその足で、アルバートのバーに向かった。 ドアを開けるなり、アルバートが声をかけてくる。 「おう、終わったのか和平会談」 「ええ、なんとか話もまとまりました。それを祝って、祝杯でも上げようかと」 「今回の一件じゃ、俺たちも調停者としてそれなりに働いた。労いとして一杯奢ってくれ」 「いいだろう。報酬は出ねぇんだ、せめてそのくらいはな」 カウンターに着いたシウと蘇我の前に、アルバートがグラスを置く。 自分のグラスも用意し、それぞれに酒を注ぐ彼に、シウは言った。 「アルバートさん、グラスが二つ足りませんよ」 「ん? ……ああ、そうだな」 アルバートはカウンターに、ワイングラスとぐい呑みを置く。グラスにイタリアワインを、ぐい呑みに純米大吟醸を注ぐ。それは亡き調停者、フリオと鴉の好んだ酒だった。 「3トライブの和平と、虐殺禁止原則の再締結に」 シウの言葉に、調停者たちが乾杯する。シウは注がれた酒を飲み干し、そして思う。 (……フリオさん。あなたが目指した3トライブの調和は成りましたよ。 だけど、これで終わりじゃありません。これから鴉さんが目指した世の静謐の為、隣神との戦いに、必ず勝つ事を誓います) と、そのとき背後でドアベルの音がした。 振り返るとトリーネ・エスティードが、店に入ってくる姿が見える。 「お疲れさまです、皆さん。蘇我さんがこちらに来てると聞きまして」 「お、トリーネじゃないか。先日はありがとな、本当に助かったよ」 先の戦いの際、トリーネは蘇我に依頼されて、虐殺禁止原則を再締結する為の防犯システムを構築したのだ。和平の影の功労者とも言える。 だが彼女はそれを誇る事もなく、穏やかに答えた。 「お役に立てたなら何よりです。ところで、こちらが頼まれた防犯ブザーの明細書になるんですが」 「そうそう、報酬を支払わなきゃならんと思ってたんだよ。どれどれ……?」 明細書を覗き込んだ蘇我が、『ぶふぉっ』と酒を吹く。その明細の金額欄には、多数の0が書かれていた。 「一、十、百、千、万、十万、ひゃく――こ、こんなにするのか!?」 「必要数が多かったので、だいぶ経費がかかりました。蘇我さん、お財布が寂しいと聞きますけど……お願いできますか?」 「あ、ああ、もちろんだ。無理言って頼んだ以上、必ず払うぜ」 蘇我はそう言いつつも、アルバートに耳打ちする。 「……おいアルバート、これ調停者の経費で落ちねぇか?」 「予定外の出費だな……。赤からの提供資金は、調停者の組織立て直しに消えそうだし」 「待ておい、そんなに調停者の財政って火の車なのか!? じゃあシウは!?」 「え、僕ですか!? 僕は一介の勤務医ですし、懐に余裕は……」 調停者たちが困り果てたような顔をする。それを見たトリーネは、苦笑して言った。 「いいですよ。受け取るのは降魔との戦いが終わってからにします」 「す、すまねぇ。それまでになんとかするぜ」 強面の蘇我がぺこぺこと頭を下げるのを見て、トリーネは苦笑した。 相棒のAI『トライン』が、そっと彼女に囁く。 『トリーネ良かったの? 防犯ブザーの制作費高かったんでしょ?』「そうですねえ……。請求額はほぼ実費ですから、今は私が立て替えてる状態になりますね」『いつも思うんだけれど、学生なのにそんなお金どこから用意してくるの?』「ちょっと資産運用をしてるから、かな」『我が相棒ながら末恐ろしいわ……』 そんなやり取りを知ってか知らずか、アルバートがトリーネに声をかけてくる。 「まぁなんだトリーネ、せっかくだしお前も飲んでけ。俺の奢りだ」 「それじゃ一杯だけ」 トリーネはそう言って、カウンターに着く。 彼女は調停者たちとグラスを合わせ、軽い酒を味わった。 「……そうだ、アルバートさん。鴉さんの本を虫干ししてたら、この写真が出てきたんですけど……」 シウがそう言って、懐から一枚の写真を取り出した。トリーネたちがそれを覗き込む。 「日羽さんの写真じゃないですか。これがどうしたんですか?」 「これを見て、疑問に思ったんです。アルブスは日羽ちゃんを『実の妹』と言ってました。でもアルブスは確か御年569歳で、日羽ちゃんはただの人間。普通に考えれば姉妹の訳がない……これってどういう事なんでしょう?」 「ああ。それは俺も鴉も気になって、調べてたんだがな」 アルバートはグラスを置き、静かに語り始めた。 「まず、事実からだ。うちのアルバイト店員『月館日羽』は、東京都内に住む女子高校生。17歳、日本人。ちゃんと戸籍もある。 だが日羽は、普通の家庭で育った一人っ子だ。戸籍を遡っても、どこにも『トリスタニア・アルブス』の名前は無い」 「じゃあどうして、アルブスは日羽ちゃんを、妹だなんて言ったんでしょう?」 「妙だよな。だからここから先は、俺の推察なんだが――お前、レオン・アーデルハイムの記憶を見たか?」 その言葉にシウは頷く。 異端教会設立者の記憶の中には、トリスタニアの妹として、『ソルピニア・アルブス』という娘が出てきた。日羽と瓜二つの顔をした少女が。 「あの記憶によれば、ソルピニアって娘と日羽は、顔も性格もそっくりだった。能力もほぼ同じだ。 生まれた時代が数百年も離れた二人が、なんでそんな事になってるのかは、俺にもわからん。単なる他人の空似かも知れねぇ。 だが、あえて言うなら――日羽は、ソルピニアの生まれ変わりなのかもな」 「生まれ変わり……」 「少なくともアルブスは、恐らくそう信じた。そしてかつて失った妹に接するように、日羽に接したようだ」 「じゃあ……日羽ちゃんを助けたのは、夜の書を読んで心を失ったアルブスにとって、最後に残された『私情』だったんでしょうか?」 「恐らくはな。長年傍観者として生きてきたアイツが、自分の意志で行った数少ない行動かもしれん。そりゃアイツの綻びと言えるが……まぁトリスタニアだって、神でも悪魔でもねぇ。一人の魔術師に過ぎねぇってこった」 そう言われてシウは、日羽を助けた時の事を思い出す。 あの時、シウだけでなく、様々な魔術師が日羽を救う為に尽力した。だからアルブスは魔術師たちに感謝し、手助けしようと思ったのだろう。トリーネも同じように思ったのか、ぽつりと呟く。 「……私はトリスタニアさんとは、ほとんど関わりないですけど。日羽さんを助けた手前、気持ちは少しわかりますね」 「だね……彼女も繰り返される悲劇を、なんとかして止めたかったのかもしれないな」 その言葉に蘇我も、酒を煽って言う。 「……止めるしかねぇだろう。せっかくここまで来たんだ、ここらで悲劇を終わりにしようぜ」 その言葉にシウもトリーネも頷く。 そんな彼らをアルバートは、穏やかな眼で見ていた…… -------------------------------------------------- ……そうして調停者たちとトリーネの酒宴は、深夜まで続いた。 やがて宴が終わり、トリーネたちが帰った後。 店を閉めたアルバートが、勝手口から外に出ると、闇の中で気配がした。 見ればそこに、やはりというか、彼女の姿が―― 「はろーだーりん! 今日もカワイイあなたの花嫁! マユはマユリは宮内マユリだよっ!」 「……なんとなく、そろそろ来ると思ってたぜ」 この平和な日に、マユリの来襲がない方が、むしろおかしいと思っていた。 だが当の彼女は「話したいことがあるんだ」と、少し恥じらった声色で言う。いつになくしおらしい態度に、アルバートは眉根を寄せた。 「話したい事? なんだ?」 「……あのね。もう分かってると思うけど、マユね、」 マユリはそう言いながら、アルバートに歩み寄ってくる。 そこでアルバートは気づいた。彼女の手にナイフが握られてる事に! 「ずーっとだーりんとこうやって遊びたかったんだー!」 「ッ!?」 反射的にアルバートは跳び下がった。 一瞬遅れてマユリのナイフが、アルバートの首筋を掠める。 「ちょっ、待て、なんの冗談だお嬢ちゃん?」 「だってほらこうすれば、だーりんはマユの事だけ見てくれるでしょう?」 「な……!?」 絶句するアルバート目掛け、マユリが間合いを詰め、刺突を繰り出す。 殺気の籠った鋭い一撃。それをアルバートは、ギリギリで回避する。 「正気かお嬢ちゃん!?」 「正気だった事ないよ? 本気で命もらうつもりだから、手加減なんて無用だよ!」 ギラついた眼でマユリが言う。その眼を見た時、アルバートの背筋がぞくりと震えた。歴戦の魔術師たる彼の勘が、危険信号を発する。 (全力で戦らなきゃ――殺られる!?) そう思う暇もなく、マユリが更なる斬撃を繰り出す。とっさにアルバートは、斬撃を右手で弾くと同時に、左掌底を繰り出した。 だがそれをマユリは短距離転移でかわし、アルバートの背後に回り込む。 「マユは見てたよだーりんのこと見てたよずっと見てたよ癖だってちょっとは分かるよさあどう出るかな往なすかな反撃かな魔術は使うかなうふふふふふ!!」 マユリがアルバートを背後から掴み、首を掻き斬りに来る。反射的に振りほどき、裏拳を繰り出す。マユリはそれを避けると同時に、アルバートの腹を抉りに来た。 薄暗い路地裏に、マユリの剣閃が乱舞する。眼で追えないほどの激しい連撃。だがアルバートは遺物『トラヴィスの指環』で身体能力を高め、嵐のような斬撃を全て捌いた。 そうしながら術式を構築。周囲の静電気を解析・操作。小さな雷をマユリに向けて放つ。 その雷撃はマユリを捉えたかに見えた。だがマユリは一瞬早くナイフを手放し、それを避雷針にして雷を回避。同時に火炎魔法を起動する。 「ちっ!」 跳び避けようと思ったが、マユリの遺物『ストームバインド』が、アルバートの身動きを阻害した。止む無く転移で避けて距離を取る。彼女は悠々とナイフを拾い上げ、再び構えた。 「いつまでマユから逃げるつもりかにゃ? マユはそんじょそこらの落とし児や魔術師より厄介だって知ってるでしょう? にゃはは!」 明るい笑顔と裏腹に、その構えは殺気に満ち、一部の隙も無い。そんな彼女を見て、アルバートは感嘆せざるを得なかった。 (昼間の戦いで疲労が溜まってるとは言え、押され過ぎだ……強ぇとは思ってたが、これほどか?) 力量で不利なのは承知のはずだが、技術と殺意で勝負という所か。だが経験ではこちらに分がある。 アルバートの魔力残量は、せいぜい汎用魔法2回分。彼はそのうち1回を、『思考解析』に使用する事にした。 敵の思考を察知して動きを読む、赤の高等汎用魔法。それを使った瞬間、マユリの思考がアルバートの脳裏に流れ込んで―― 『ああ! しあわせ! なんてなんてなんて! しあわせ!! マユがだーりんを見てだーりんがマユを見てあああん! もう! 堪らない! どきどきしちゃうよおおおお!!』 (っっっ!!) その狂暴な愛情に呑まれそうになり、アルバートは慌てて思考解析を止めた。 (駄目だこりゃ……小細工無しで行くしかねぇな) アルバートは覚悟を決めた。多少のダメージは許容してでも、次の一合で決めると。 同時にマユリが、再び火炎魔法を繰り出した。アルバートは疾駆し、その炎に真正面から飛び込む。 「うぉおおおッ!」 焦熱に耐え、アルバートがマユリに接近する。マユリはその胸目掛け、全力の刺突を繰り出したが―― ナイフの切っ先が突き刺さる寸前で、アルバートの体が消えた。彼は最後の転移魔法で、マユリの背後に回り込む。 マユリが振り向きざまの反撃を繰り出した。逆手に持ったナイフが、アルバートの腕を捉える。 『ざくり』という音と共に、激痛が走る。だがアルバートは構わず、マユリの腕を抱え込み、思い切り投げ飛ばした。 「ぎゃん!」 地面に叩き付けられたマユリが呻き声を上げる。間髪入れずアルバートは、銃に変形させた右手を突き付けた。 「……決まりだ、お嬢ちゃん」 押し殺した声でアルバートが言う。するとマユリはふぅっと一息つき、 「うん……たのしかった!」 そう、けらけらと子供のように笑った。 その笑い声と無垢な表情に、アルバートは毒気を抜かれる。やがて彼女が、不意に真顔になって続けた。 「……ねえ。すきよ、アルバート・パイソン。あなたが思ってるよりずっとずっと」 「……」 「嘘じゃない。すきよ、だいすき、あいしてる。……さあ。ねえ、あなたの答えは?」 その視線はどこまでも真っ直ぐで。先程までの殺気も狂気も、微塵も感じられない。 それを見てアルバートは思った。いい加減はぐらかす事は出来ないと。何らかの答えを出さねばならないのだと。 闇の中に沈黙が訪れた。マユリの眼がアルバートを見つめる。彼はそれを見返し、そっと口を開いた。 「あー……お嬢ちゃん、スジがいいな。俺も何度かヒヤっとしたぜ」 「そういう話じゃなくて――」 「まぁ聞け。だがこの先の戦いは、今までにも増してヤベェ。お嬢ちゃんでも生き延びられるかわからんし、俺がいつも着いてる訳にもいかねぇ。……だからこいつを、お嬢ちゃんに預ける」 アルバートはそう言って、左手に嵌めていた指環を外した。 遺物『トラヴィスの指環』――それをマユリに差し出して言う。 「……この指環の元となった魔術師は、『颶風の魔人』トラヴィス・ブランネル。インクの創設メンバーの一人で、女好きの魔術師だった。俺みたいなおっさんに使われてるよりは、本人もこの方が喜ぶだろう」 彼は亡き親友の遺物を、マユリの指に嵌めた。――"右手の薬指"に。 一瞬の後、マユリがその意味に気づいたように目を見開く。 「だーりん、これって……?」 「お嬢ちゃんは、約束に縛られるのは好きじゃねぇかもしれねぇがな……まぁ、これが俺の答えだ」 アルバートはそう言って、居心地悪そうに目を逸らす。 マユリは跳ね起き、彼の首に抱き付いた。 首がへし折れそうな圧力を感じながら、アルバートは思う。 自分は調停者だ。常に中立を貫かねばならないし、死んでいった仲間たちの想いを裏切る訳にもいかない。 だがこの約束で、この娘が最後の戦いを生き延びてくれるなら。長い生涯の果てに、誰か一人でも、確かに救えるのなら―― (……このくらいは許されるだろう? なぁ、フリオに鴉……) アルバートはそう思い、夜空を見上げる。 そこには満天の星が瞬いていた―― -------------------------------------------------- ――そうしてマユリとアルバートの物語に、一つの決着がついた頃。 もう一つの恋が、別の決着を迎えようとしていた。 夜半過ぎ、三坂忍が黒の拠点を訪れる。そこではニナが一人で、和平に伴う事務仕事を行っていた。 彼女は顔を上げ、忍を見る。 「忍か……和平会談に顔を出すと思っていたが」 「他に寄るところがありまして」 忍はそう言って、体内からずるりと何かを取り出す。 それは魔力を失っていた頃のラプラスが使っていた装備。魔粒子可視ゴーグルと魔粒子探査機、そして魔粒子砲だった。 「インクの研究所から借りてきました。動力源として落とし児の核を使ってるので、今の貴女でも使えます」 「……ありがたいな。祈の護衛があるとしても、さすがに無力過ぎると思っていたところだ」 「こちらのガラス瓶は私から。中に強力な降魔を優先して攻撃する落とし児が封印してあります。攻撃力より耐久力に振ってるので時間稼ぎには最適でしょう」 「ああ、すまない」 ニナは端的に言い、再び書面に視線を落とす。 その表情はどこか強張っていた。さすがにバツが悪過ぎると思ったのだろうか。忍はそれを感じ取りつつも、静かに続ける。 「で、私の邪魔をしてまで夜の書を手に入れて……あの人の事、許せそうですか?」 「……ナハトブーフの事か」 忍はニナが、ナハトを父の様に慕っていた事を知っていた。だからこそ、彼女に告げる。 「あの人は夜の書を手にする前から、自分の生きる意味を求めていた。彼が自らの目的のために貴方の許を去ったのも、世界を敵に回してなお、世界を、魔術師を、家族を救おうとしたのも。それが彼の生き様だったからです」 「……」 「それは私も同じ事。例え夜の書が手に入らなかったとしても、私は彼の意志を継ぎ、貴女の許を去ったでしょう。あの人も私も、そういう風にしか生きられないのだから」 「……ああ、わかっていた。私が何をしようと止められなかった事も」 ニナは力なく呟いた。 視線は文書に向けられているが、その眼は別のものを見ているのだろう。ややあって顔を上げ、忍に問いを返す。 「……それをわざわざ言いに来たのか? ならば今日はもう遅い、下がっていいぞ」 「いいえ、他にも伝えなければならない事があると思いまして」 「何だ?」 「信じ切れていないようなので、はっきり言いましょう。彼も私も――」 言いかけて、口をつぐんだ。 この大事な言葉は、ナハトとひとくくりにしてはいけないものだ。そう思いながら、忍はニナを見据え―― 「私は、貴女を愛しています」 その言葉を、口にした。 刹那、ニナの表情が強張った。恋愛沙汰を嫌う彼女の事だ、怒鳴られるかもしれないと思った。 だがニナは意外にも、柔らかく目を細めて答える。 「……ありがとう、忍」 彼女はそう言って立ち上がった。意外な反応に立ちすくむ忍に、彼女が歩み寄ってくる。 そしてニナは忍の眼前で立ち止まり、 「だが、一つだけ言わせて欲しい…… お前は何もわかっていないのだな!」 そう言うや、忍に頭突きをかました。 「ぐっ!?」 予想外の痛烈な打撃に、忍は思わずよろめいた。そこにニナの怒声が叩きつけられる。 「私を舐めるな! お前が私を愛――……そんな事くらい、とうの昔に理解している!」 「えっ?」 「当然だろうが、馬鹿者! 一度は心を繋いだのだ、伝わらないわけがないだろう!」 そう言うニナの眼には、今までにない程の怒りが満ちていた。戸惑う忍に彼女は続ける。 「だがどうすればよかった? 私は『黒の魔女』だ、お前の想いに応える事はできない。どうすべきかわからない内に時は過ぎ、お前はナハトの遺志を継いだ」 「っ……」 「そうしてお前は夜の書を求め、手に入れた。私の目の前で精神を侵食され、己の心を失おうとした。お前自身は納得づくだったのかもしれないが、それを私が捨て置けると思ったのか? 『終焉の魔人』となったお前が、黒の家族たちを殺し、最後は魔術師たちの手で討たれる――そんな未来を私が望んでいたと、お前は本気で思うのか!?」 まくしたてられたその声に、忍は眉根を寄せる。 矛盾に満ちた言葉だった。それはニナが選んだ道でもあったからだ。 忍がそれを望んでいないと知っていながら、彼女は同じ道を選んだ。自らの命を捨ててでも、相手を救う為に。魔術師たちの未来の為、己を礎にしようとした。 そこに『全ての魔術師の為』と『黒の魔術師たちの為』という違いはあれど、二人の願いはよく似ていたのだ。 「……全て、私の為だったんですか? 夜の書を身に取り込んだのも」 「違うわ馬鹿めが、そんな安っぽい選択ではない! あくまで最優先は、黒の魔女の使命を果たす事だ! あの時点では私の命を捧げる事が、黒の家族を護り隣神を討つ為の、最適解だっただろうが!」 「……!」 「私は終生、黒の魔女だ。お前の言う通り、お前とは生き方が違う。 なのになぜ、そんな事を……! お前は私をどうしたいのだ?」 貫くような視線が忍を捉える。同種の魂を持つ二人の魔術師は、話す程にすれ違っていた。 伝えたかったのはこんな事ではない。ただ彼女の救済を願っただけだ。それが人である事を捨てつつある忍の、最後の心のよすがなのに。 (何か言わなければ……! これが最後の機会かもしれないんだ……!) 忍は言うべき事を探す。明晰なれどこの方面には全く疎い彼が、全力を懸けて言葉を探る。 何度愛を告げた所で、彼女は救われないだろう。その生涯の中で家族を失い続けたニナの、恐れと孤独は埋まらない。 彼女が望むものは、ただ一つ。 そう思った忍が、出した答えは―― 「……結婚しましょうか、ニナ」 その言葉だった。 「なっ……!」 ニナが絶句する。だが忍には、他に言うべき言葉は無いように思えた。安い恋心などではなく、ただ真摯な想いを口にする。 「……私たちは魂の形は似ていても、やはり違う生き物です。たとえ隣神との戦いに勝っても、それぞれの信念を貫く中で、いつかは牙を向け合う事もあるかもしれません」 「っ……」 「しかし私はいつも家族として、大切な女性として、貴女の未来を願っています。互いの歩む道が違おうと、生きる場所が遠く離れようと……永遠に変わる事なく、貴女の家族であり続ける。その証として」 そう告げた忍を、ニナがじっと見つめる。 長い沈黙が訪れた。 身を切るほどに緊迫した、恐るべき静寂だった。 だがニナはやがて、表情を緩めて言う。 「……この闘いが、終わったらな」 そう言って彼女は微笑んだ。 それは忍が今まで見た事のない、陰りの無い笑顔だった……。 -------------------------------------------------- ――そうしてこの一日は、終わったかのように思われた。 しかし、まだ一人―― 最後の一人が、くすぶる想いを抱えていた。 「良い夜風だな……3トライブの和平も成立したし、とりあえずホッとしたぜ」 宴の帰り道、蘇我は一人川辺を歩きながら、上機嫌に呟いた。 それから空に向けて続ける。 「なぁ、そうだろうアーテル?」 「ンだよ。俺を名指しで呼びつけるたァ、いい度胸じゃねぇか」 瞬間、行く手の空間が歪み、そこからアーテルが出現した。 名指ししたので、わざわざルーフスから人格転換して、やってきたのだろう。 「和平会談見てただろ。お前の目論見は、魔術師達の手で打ち砕かれたぜ?」 「そうみてぇだな。せっかく俺が抗争のお膳立てしたってのに、その苦労も台無しだよクソッタレが」 「ザマぁ見ろだ。しかしまぁ、それはいいとしても…… 実は俺は、まだ納まりがついてねぇんだ。これは調停者の仕事でも、警察の公務でもねぇ。プライドの問題さ」 蘇我がそう言った時、周囲に公安の部下たちが現れた。眉根を寄せるアーテルに続ける。 「いつかお前は言ったな? 『警察なんざクソの役にも立たねぇ』ってよ。だから俺たちは力を得た。お前がいなくなった後の社会を護る為に」 公安の部下たちは、一斉に蘇我に身体強化・魔法耐性強化の魔法を重ね掛けし、すぐに去って行った。残された蘇我が眼前の敵を睨む。 「それが可能だという事を証明してみせる。公安部を代表し、桜田門の意地を見せる……その為にわざわざお越し頂いたってわけだ」 「はっ、面白ぇ! 意外な野郎が最後に残ってたな?」 アーテルは退屈の虫が吹き飛んだというように、そう答える。 「いいぜ、闘ろうか。 白と黒、調停者と元調停者、魔術師と魔人、秩序を望む者と混沌を望む者。これだけ相反する要素が揃えば、闘わねぇ方が不自然だ」 「ああ、行くぜアーテル……これが俺の、最初で最後の『私闘』だ!」 蘇我はそう言うや、89式自動小銃を創造し、乱射した。 アーテルが黒霧でそれを弾く。蘇我は小銃が効かない事を見て取ると、素早く詠唱銃に持ち替える。 「この弾丸に命あれ、叛き者を瓦解させよ!」 詠唱付きで銃撃を放つと、光り輝く弾丸が、光線のように放たれた。アーテルの黒霧を突き破り、その頬にかすかな傷をつける。 「なんだオイ、本気だなお前? 『調停者の法に従いあらゆる魔術師を護る』んじゃなかったのかよ?」 「『公共の敵に対しては容赦しない』ってのも、俺の信条でね。アルブスとルーフスはともかく、お前はそうだろ?」 「つってもこの俺に勝てると思ってんのか? 昨日今日魔術師になった若造がよ!」 同時にアーテルが、『黒の嵐』を放った。直撃を受け、全身を切り刻まれた蘇我がぐらつく。 そこにアーテルが襲い掛かる。だが蘇我は、 「勝てねぇからって、はいそうですかとは引き下がれねぇんだよ!」 その言葉と共に、反撃の拳を繰り出した。 それを受けたアーテルの体が、みしりと軋む。 彼は跳び下がり、それからにやりと笑った。 「……それでいいのさ、守護の魔術師。それがお前の意志ってこった。だが自分の意志を貫こうとすれば、必ず他者と衝突し、闘争が起きる。それがこの世の理だ」 「あ……!?」 「それでもなお、己の信念を貫こうとする事――それが魔術師の生の本質だ。他者とぶつかったからって信念を曲げ、自分の意志を捨てて生きてくなら、そりゃ死んでんのと同じだろ?」 アーテルの頬に、獰猛な笑みが浮かぶ。だがその眼にはどこか、懐かしげな色が滲んでいた。 「俺は覚えてるぜ、かつてお前が叫んだ言葉を。 『ただの刑事では倒せない悪と戦う為に、俺は魔術師になったんだ』 お前という魔術師を表す台詞だよ。他にも無数の魔術師たちが、それぞれの意志を語ってきた。俺はずっと長い事、それを見続けて来たんだ」 「お前……?」 「この闘争と混沌の悲喜劇が、俺は結構気に入ってたんだがな……。どうやら終幕が近いらしい。だったら残り少ねぇ時間、楽しもうじゃねぇか!」 アーテルがそう言いながら、黒霧を纏わせた拳を振るう。 遺物で強化された高速の連打。それに打たれる度、黒の魔粒子を介して、蘇我にも彼の想いが伝わってきた。 それは今までアーテルが見続けて来た、魔術師たちの記憶。 数多ある物語の欠片の中で、様々な魔術師が紡いだ言葉―― * * * * * * * * * * 『――白のトライブの崇高な使命は、魔術師を管理する事である』 『絶対に無くなる事のない争いを止めようなど、無駄な事ですわよ?』 『闘って闘って、屍の山を築いても、平和は得られなかった』 『平和って奴を守ってみろよ魔術師ども』 『死ぬ覚悟があれば、格上に挑んだっていいんだろ?』 『欲望には欲望で答える主義なんでネ』 『電子戦で誰が一番上なのか教えてあげましょう』 『"二度と窓が開かないようにする"事を誓い、それによって魔術師に』 『この世界から落とし児を全て消し去る、それが僕の進む道だよ』 『俺は護るため、他者の幸福のため以外の理由で魔法を使わない』 『生き抜くって事は、自分の力で意志を貫く事だ』 『我が身、我が未来は新たなる礎に』 『もう誰にも何も奪わせない、ラプラスさんとそう約束したんです』 『困難な道でしょうけれど優しい夢ですもの、出来る限り手を貸します』 『大丈夫だよ、あゆみちゃんの事は私がしっかりと守るからね?』 『ハローハロー、ちょいと手伝いをさせてくれよ』 『あなたたち、死亡フラグを立て過ぎなのよ…あんまり心配させないでね』 『俺は希望を信じる、絶望には頼らないよ』 『我歩くんがおれを護るっていうなら、おれにも護らせてほしい』 『だーりん死んだりしないでね、じゃないと第二の覚醒しちゃうから』 『仲間とふざけ合うことも出来ない世界なんていらない』 『おれはもう、誰かを失うのは、嫌だ』 『簡単に諦められるなら、俺たちはここまで戦ってこられなかったよ』 『吹けば飛ぶような存在でも、指一本でも動く限り折れたりはしません』 『魔術師が力を合わせれば、その力は殺し合いで生き残った最強の魔術師をも超える…俺はそう信じている』 『夜を越えて、次の朝を迎えられるなら、その朝日は皆で拝みたいじゃないですか?』 『わたしはわたしの固有魔法で、希望への道を切り開く』 『僕らは奇跡を起こす、魔術師ですから』 『さぁ、共に悲劇を終わらせに行こうか』―― * * * * * * * * * * ――それが魔術師たちの意志だった。彼らの心から溢れ出た想いそのものだった。 それを受け止める蘇我に、アーテルが笑みを浮かべて言う。 「……いいか魔術師たちよ、その意志に従い生きろ。 たとえこの世界が終わっても、絶望がお前らを包んでも。 最後の瞬間まで、お前らの信念を貫いてみせろ!」 「ああ――言われなくともだ!」 蘇我もかすかな笑みを返し、アーテルを全力で殴り返す。 静かな川辺に、しばし殴り合う音が響く。お互い牙を向け合いつつも、どこかその姿は満足げで。 しかし、その奇妙に穏やかな時間にも、やがて終わりが来る。 蘇我の全力の突きを掻い潜り、アーテルは蘇我に抱き付いて―― 「……あばよ、魔術師」 そう告げて、両腕から黒霧を放った。 「っ――……!」 意識を分断された蘇我が、その場にどさりと崩れ落ちる。 アーテルはそれを見下ろし、ふんと鼻を鳴らした。 「やれやれ、この俺が顔に色つけられるとはな……ただの魔術師にしちゃ、そこそこって所か」 忌々しげに言いつつも、その声には嬉しそうな色が滲んでいた。 それから彼は、夜空を見上げる。その彼方、隣世に棲む敵を見据える。 「……安心しろよ。焦らなくとも、じきに最後の戦いが始まる。その時のお前らの闘いぶりを、俺は心から楽しみにしてるぜ」 アーテルはその言葉を残し、無色の間へ去って行った。 ――そうして魔術師たちの物語が、それぞれの転換点を迎える。 彼らの運命は交錯し、終局に向かって動き出す。 その平穏な一日が終わり、夜が明けた頃……。 降魔たちが現世に降り立ち、死闘の幕が上がるのだった。
(魔術師たちの物語が終局に向けて動き出した)